島の酒                            text / tagotago  1  Y島から小包が届いた。差出人はしおりだった。  私に小包……少しとまどいを覚え、考えてみたが手に伝わる重さに心当たり は無かった。  もう何年になるだろう。島内放送の設備改善のため、私はY島に出張するこ とになった。  体力のある若手にはこういう僻地への出張ばかりまわってくるのだが、人間 関係のわずらわしいデスクワークより、うまい空気が吸えるこの仕事が私は気 に入っていた。  機器の交換とテストは数時間で終わったが、観光客も来ない小島で、釣り舟 のような小さな連絡船が一日一便あるだけだ。私は役場の職員であるJ氏の自 宅に宿泊させてもらうことになった。  J氏宅では島外からの客として歓待をうけた。新鮮な魚介類がふんだんに並 ぶ食卓に私は多いに満足したが、アルコール類は一滴も出なかった。  食事も終わり、食卓の上が片づけられると、J氏が真剣な面持ちでたずねた。  「Kさんは、お酒のほうは飲まれますか」  「ええ、多少は」  「実は、私の娘が初めて作った真手奈酒があります。よろしかったらお召し 上がりください」  名前だけは聞いたことがあった。「まてな酒」というのはこの島独特の酒で、 賓客だけにふるまわれるものだそうだ。「真手奈」は恐らく万葉仮名だが、実 らぬ恋に身を焦がし入水して果てたという、この島に古くから伝わる伝説の少 女の名らしい。  「しおり、ごあいさつしなさい」  J氏に呼ばれて、娘がフスマを開けてあらわれた。14、5才だろうか、ツ ーテールの髪に思春期らしいやわらかい頬の輪郭が隠れることなく見えた。細 身の身体に真新しいゆかたがよく似合う。  「お客様に粗相のないように」  そういうと父親は私に一礼し、部屋を出ていった。  正座した少女が畳に手をついてあいさつした。  「私が作った御酒です。よろしかったらお召し上がりください」  古風な堅苦しいあいさつだが、これが真手奈酒をふるまう作法なのだろう。 少女の緊張した様子に、私も姿勢を正した。  「喜んで、頂きます」  杯を手に取ると、しおりは徳利を両手で持ち、酌をしてくれた。緊張のせい だろうか、ぎこちない手つきだった。  口に含んでみる。いかにも地酒らしい濁り酒で、わずかに酸味のある、独特 の風味だった。  私が最初の一杯をじっくりと味わっている間、少女は無言だったが、私の反 応を気にしているのがありありとわかった。自分の造った酒の出来栄えが心配 なのに違いない。  酒は、美味だった。  「おいしい」  しおりは赤面してうつむいた。誉められて嬉しかったのだろう、緊張がすこ しほぐれたようだ。  「ほんとうにおいしいよ。君が造ったの?」  「……」  しおりは恥ずかしそうに、ただうなずくだけだった。私が酒の風味、味わい をしきりに誉めると、しおりは酌をするのも忘れたように、ただ真っ赤になっ てうつむいていた。私は手酌で酒を楽しみながら、うなじまで赤く染めている しおりを微笑ましく眺めていた。  飲みおわった杯と徳利を片づけようとしているしおりに、私はふとつぶやい た。  「君がこの酒を造るところを見てみたいよ」  少女は両手で顔を覆い、食卓に酒器を残したまま、逃げ出すように部屋を出 ていってしまった。  気に障ることでも言っただろうか。思い当たるふしもない。この年頃の娘は 微妙なのだろう。上機嫌の私は深く気にもとめなかった。  翌日、船の時間に合わせてJ氏宅を出ることにした。J氏はすでに出勤して おり、夫人も畑に出ていた。  「私はもう帰ります。よろしくお伝えください」  玄関先で家の奥にそう声をかけると、もう夏休みのしおりが出てきた。本で も読んでいたのだろうか、銀ぶちのメガネをかけている。  前髪を気にしたしおりは、指に触れたメガネを思い出したように外すと、自 家用の菜園になっている庭先まで見送ってくれた。夏色の空と深い色の水平線 が目の前に開けた。  しおりがステンレスの小さな水筒を私に手渡した。  「真手奈酒です。もっていってください」  「ありがとう。でも、この水筒……」  はにかんだような表情でしおりが答えた。  「今度来たときに、持ってきてください」  そう言うと、しおりは足早に家の中へ戻ろうとする。  今度来たとき、か……。私はもう一度、遠い海の色を眺めてみた。確かに、 私はこの島が気に入っていた。  「ありがとう。また来るよ」  私はしおりの背中にそう声をかけた。  しおりは振り向いて笑顔をみせた。  「お酒、また造っておきます」  他に客もいない帰りの船の中で、私は船長と昨夜の話をした。  「真手奈酒などめったに飲めん」  船長は真手奈酒について説明を始めた。  真手奈酒というのは、島の娘の膣内にいる常在菌の一種を使い、米を発酵さ せて作る酒なのだという。  酒造りを許されるのは未婚の娘だけだ。酒を造る娘は朝風呂で身を清め、酒 造り用の洗面器ほどの木桶にまたがる。指を使ってみずからを巧みに刺激して 膣分泌液の湧出をうながし、木桶に垂らしていく。  この「仕込み」の際の指の使い方には、島の娘たちに代々伝わる流儀がある らしい。嬌声をあげたりするのは、はしたないとされるが、もちろん巧みに自 分を追い上げるのが「仕込み上手」である。  必要量集まったところで、木桶に蒸し米を入れて攪拌し発酵させる。あとの 手順は日本酒と同様だが、むろん日本酒のように大量生産できるはずもない。 一度に作れる量はごくわずかだ。  古くから、よい真手奈酒が作れることが、よい女の条件とされているから、 娘たちはみな懸命に練習し、酒造りの腕をあげていく。  それでも、充分な量の液を仕込むには時間がかかる。特に酒造りを覚えたば かりの娘は、午前中から夕暮れ時まで、声を殺して何度も昇りつめ、けなげに 指を使いつづけるものだという。  「覚えたての娘は、まだ自分のツボや加減がわからんからな」  土産に真手奈酒をもらったと私が言うと、不精髭の船長はくわえ煙草で、に やりと笑った。  「あんた、娘に惚れられたね」  2  8月の下旬、人より遅い夏休みを取った私は、大学時代に愛用したテントと キャンプ道具一式を頭の上まで盛り上げたリックをかついでY島に向かった。  30 秒歩けば、小さな砂浜におりられる。そんなキャンプに格好の場所を見 つけ、テントを張った私は、J氏宅にあいさつにいった。  J夫人に先日の礼を言い、水筒を返した。しおりは外出中とのことだった。 あとでテントに遊びにおいでと、しおりに言づけを頼んでおいた。  夕暮れ時、テントのそばでコーヒーを沸かしていると、しおりが訪ねてきた。  「昼間はすみません……お酒を造っていたので」  母親は気をつかって外出していると言ったのだろう。恥ずかしそうなしおり に気がねさせないよう、さり気なく返事をした。  「そう。コーヒー飲むかい?」  「はい」  「もうすぐ夏休みも終わりだね。休み中はどこか行った?」  「今年はどこも。受験もあるし、お酒造りの練習もしないと」  「たいへんだね」  「私……覚えたばかりで上手にできなくて。時間がかかるんです。だから… …」  しおりが顔を赤らめ、言葉が途切れた。  うっかりしていた。しおりの言葉を聞きながら、コーヒーの入ったマグを包 み込むように持っているしおりの素直な指を、つい私は見つめていた。  しおりは、私の視線に気がついたに違いない。  「すまない」  「いいんです」  「浜におりようか」  砂浜に二人で並んで座り、この島ではありふれた、だが壮大な夕暮れの空を みながら、ぽつりぽつりと話をした。会話の内容はすっかり忘れてしまった。 しおりの声や口調は今も思い出すことができるのに。  やがて、私の腕につかまるように寄り添っていたしおりの身体が、私にもた れかかってきた。  もちろん、その仕草に特別な意味はなかった。しおりはうたた寝をしていた。 起こさないように、私はしばらくそのままじっとしていた。  朝から夕方までずっと酒造りをしていて、疲れたのだろう。しおりのあどけ ない寝顔を見ながら、そう思った。  しおりが目を覚ました。  「ごめんなさい。私……」  「10 分もたっていないよ。でももうそろそろ家に帰った方がいいね」  しおりはうなずいた。あたりはまだ暗くなかったが、オレンジ色にきらめい ていた空には、深いブルーが浸透しようとしている。  私はしおりを家まで送って行くことにした。  歩きながら、しおりの手が私の手に触れてきた。まるで子供が手をつなぐよ うな自然さだった。私も、しおりの手を握りかえした。  手の中のしおりの細い指が心地よかった。しおりにも私の手の感触が伝わっ ているだろう。明日しおりは、私のこの手の感触を思い出しながら、酒造りを するのだろうか……。私はふとそう思ったが、むろん言葉には出さなかった。  まるで、私の気持ちを見抜いたように、しおりは私を見あげてうなずいた。  「明日も、お酒を造ります」  3  やがて、しおりは島外の高校へ進学した。その後も時おり手紙のやりとりが あったが、最近では年賀状が届くだけになっていた。しおりは大阪の短大を出 て、関西の企業に就職したということだった。  かつて新米の技師として、好んで僻地を飛び回っていた私も、最近ではデス クワークに慣れ、すっかりフットワークが重くなってしまった。  小包を開けてみる。小振りなステンレスの水筒が入っていた。あの年の夏、 Y島でしおりが手渡してくれた水筒だ。同封の手紙には、私が造った最後の真 手奈酒です、召し上がってください、とあった。  最後の真手奈酒……。  そうか、連絡船の船長が言っていた。真手奈酒造りが許されているのは未婚 の娘だけだと。  私はしおりの幸福を祝福しながら、真手奈酒を味わった。懐かしい味ととも に、しおりの家の庭先で見た、真夏の水平線の深い色が鮮明に蘇った。 ------------------------------------------------------ 島の酒                    text / tagotago version 2.0 2000-08-13 from "tagotago's TXT" http://members.tripod.com/~tagotago/index.htm Tagosaku Yamada ------------------------------------------------------