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 北風と太陽

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 4 オナニーのしすぎはいけないと思います。

 4-1 わたしはピンときた

 ちょうどいい。掃除が終った理科室には他に誰もいなくて、 木下くんが「あー、全然威力ねえ」なんてひとりごと言いな がら黒板消しクリーナーを使ってる。

 亜紀が「行きなよ」と目で合図しながら、わたしの背中を 押した。恵は無言でわたしを見ている。わたしはゆっくり木 下くんに近づきながら、声を出そうと努力していた。声がか すれないかちょっと心配だった。

 「木下くん」
 「あー?」
 ニキビ面の木下くんが振り向いた。
 「えと、木下くんに、お話があるんだけど…」
 「ああ。なに?」
 「あの……木下くん、なにか、悩みとか、あるん、じゃな い?」
 木下くんは何の話かわからない顔をしてる。わたし知って るのに。
 「たとえば、えと、勉強が、手につかないとか…」
 「あー。あんまし集中できないかなあ、教科書あけても」
 やっぱり。
 「ど、どうして勉強に集中できないの?」
 「んー、どうしてって言われても」
 木下くんはちょっと口ごもった。
 やっぱりだわ。わたしわかってるのに。恥ずかしくて言え ないんだ。緊張でうまく話せないけど、わたしが代わりに言 ってあげなきゃ。
 「た、たとえば、お……、お……んなの子のことが気にな ってとか…」
 「んなことないよ」
 隠さなくていいのに。わたし知ってるのに。
 「で、でも、木下くんも、せ……、せ……いよくとかある よね」
 「あー? 意欲?」
 保健のテキストで予習してあったけど、やっぱり性欲なん て言葉を男子の前で口にするのは、すごく抵抗がある。頬っ ぺたが熱くなってきて、ますます緊張してくる。
 「せい……せいよく」
 わたしが言いにくい言葉をこんなにがんばってしゃべって るのに。話が通じてる気配がない。
 「それで……それで……」
 熱くなった頬っぺたを手の甲で押さえてみたりしながら、 わたしは必死で次の言葉を喋ろうとする。
 「…いろんな、こと……しちゃったり、とか…」
 「あー?」
 木下くんは不思議そうにわたしを見てる。
 がんばって、友里子。木下くんを助けなきゃ。そう自分に 言い聞かせたけど、だんだん声が小さくなってくる。
 「つまり…えと……じ…自慰…とか」
 「爺?」

 日曜日にわたしは教育テレビの番組を見ていた。
 その週は、自慰のしすぎで受験勉強に集中できなくて悩ん でいる男の子の話だった。ストレスのせいか1日6回ぐらい してしまって、自分でもどうにもできないという話だった。

 自慰のしすぎで深刻に悩んでいる男子がいることを初めて 知ったと同時に、わたしには思い当たることがあった。同じ クラスでわたしの近所に住んでいる木下くん。

 なんかぼーっとしてるし、学校の成績もさえない感じだし。 木下くんのお母さんも、うちの子は勉強しなくてとこぼして たし。きっと木下くんも勉強に集中できなくて伸び悩んでい るんだ。自慰のしすぎで。

 スポーツで発散するタイプでもないし。女の子にもてるタ イプでもないし。きっとストレスと欲求不満のせいで自慰の しすぎになってしまうんだ。

 ニキビがあんなにいっぱいあるし。絶対悩んでる。木下く んがいつもぼーっとしてる理由がやっとわかった。自慰のし すぎだったんだ。

 本人がとても悩んでいるのに身近にいる人が気づいてあげ られなくて、不幸なことが起ることもある。でも大丈夫。わ たしは保健委員だし、自慰についてもちゃんと勉強している から、カウンセリングして木下くんを助けてあげられる。

 わたしは亜紀と恵にも相談して、一緒に木下くんの自慰の 悩みを解決してあげることにした。

 「友里子保健委員でしょ? はっきり言いなよ」
 わたしの後ろに立っていた亜紀がじれったそうに声を上げ る。判ってる。わかってる。わたしは心臓の鼓動と同じテン ポでかくんかくんうなずいた。
 「つ、つまり……あの、たとえば…お…」
 頬っぺたもおでこも、めまいがしそうなくらい熱い。
 「お…なに…とか」
 恥ずかしくて「ニー」の横棒が発音できない。

 だめよ。ちゃんと言わなくちゃ。わたしは、くしゃくしゃ のハンカチをぎゅっと握り締めた。恥ずかしくて目を伏せた くなる。きっと顔は真っ赤だ。大きな声は出せそうにない。
 「木下くん……」
 でも、わたしは今まで生きてきた中で一番の勇気を出して、 木下くんの顔をなるべく見ようとしながら、木下くんに告げ た。

 「オナニーのしすぎはいけないと思います」

 4-2 その悩み、わたしたちが預かった

 「いっぱいオナニーしちゃうんだって?」
 つっかえてばかりのわたしを見てられなくなった亜紀が話 しはじめた。
 やっと話が通じたらしい木下くんは黒板消しを手に持った ままつっ立っている。恵が、つけっぱなしになってる黒板消 しクリーナーを止めた。
 「しねーよ」
 「1日6回ぐらいしちゃうんだって?」
 「そんなに、しねーって」
 「だから、することはするんだよね。隠すことないって。 オトコらしくないぞ」
 そう言って、亜紀が木下くんの肩をぽんぽん叩きながら、 明るく笑う。口が大きすぎるから自分は笑わない方が美人な んだっていうのが亜紀の持論だけど。
 「ななな、何だよおまえら。俺が何したんだよ」
 「だからオナニー!」
 「大声だすなって」
 やっぱり悩んでるんだ。木下くんの目が動揺してる。

 「いいんです、隠さなくても。わたしたちわかってますか ら。性欲がいっぱいで、毎日5回も6回もしちゃって、勉強 や生活の妨げになってること」
 わたしたちの気持ちをちゃんと伝えないと木下くんも心を 開いてくれない。そう思って、わたしも一生懸命話した。
 「あの、でも誤解しないで。してもいいんです。男の子が 性欲があって、そういうことするのは普通ですから」
 「ご、誤解してるのどっちだよ」
 「恥ずかしがらなくて大丈夫です。わたしたち知ってます から。木下くんが悩んでること。だから…」
 わたしは胸に手を当てて必死に続けた。
 「だ、だから、木下くんに1回……オナニーして欲しいん です」

 「…!…」
 わたしの言葉を聞いて、木下くんの目がまん丸になった。
 「えと、えと、違います」
 わたし誤解を招くこと言っちゃった気がする。
 「えと、今するんじゃなくて……つまり、おうちで……適 度に……オナニーして欲しいんです」
 「そうそう。回数減らそうね。ちゃんと回数決めて」
 亜紀がフォローしてくれた。
 「だから、俺は……」
 「はいはい。オナニーは1日1回。えーっと、あとはタイ ミングかな」
 「タイミング?」
 「いつ、オナニーするか。たぶん、勉強の前にオナニーし た方が、集中できるんじゃない?」
 「そうなのかな…」
 「うん。きっと勉強の前に済ませた方がいいわよ」
 あまり自信はなかったけど、亜紀の考えに反対する理由も なかった。
 「えと、じゃあ、勉強の妨げにならないように、勉強する 前に1回……オナニーしてください」

 「ねぇ。あの…」
 今までずっと聞き役に回っていた恵が初めて口を開いた。
 「今まで、1日6回もしてた子が、急に1回にできるのか しら」
 恵はもの静かな子だけど、そのぶん言葉に力がある。話を するとき、少し顔を近づけるようにして相手を見つめるくせ があって、あの吸い込まれそうな瞳でものを言われるとちょ っと逆らえない。
 「きっと木下くんつらいわ。ちょっとかわいそう」
 本当は、恵は近眼なのに授業中以外めがねをかけないから、 相手の顔がよく見えなくてそうするらしい。でも、恵に好意 を持たれたと勘違いする男子が後を絶たないみたいだ。
 「違うって。誰が言ってんだよ、んなこと……」
 木下くんの反論も、もう全然勢いがなかった。
 「そうね……。じゃ、もしも、どうしても我慢できなくな ったら……えと、勉強の後に、もう1回……オナニーしても いいことにします」

 「ちゃんと守ってね、木下くん。あした、回数を聞きにく るから。ね、友里子」
 「え、……そ、そうね」
 確かに、亜紀の言うとおりだ。言いっぱなしじゃカウンセ リングにならない。木下くんが社会復帰できるまで、ナイチ ンゲールのような気持ちで見守ってあげないといけない。
 「明日、また来ます」

 わたしは保健委員としての注意を最後に付けくわえた。
 「えと……ちゃんと手を洗って、清潔な手で……オナニー してください」
 「これ、よかったら」
 恵がポケットティッシュをちょこんと教卓の上に置いた。
 「使ってください」

 4-3 亜紀が引っ捕らえ、わたしはまた赤面する

 どう話を切り出せばいいんだろう。どう質問すればいいん だろう。わたしは次の日までずっと考えてた。男の子に昨日 のオナニーの回数を聞くなんて……。

 「木下くんがいないわ」
 でも、木下くんは放課後、わたしたちと顔を合わせるのを 避けるように速攻で下校してしまった。
 「ふっ。甘く見たな」
 自転車通学の亜紀がカバンをカゴに放り込むと、地面をひ と蹴りして愛車に飛び乗った。
 「先に行く。走れ、友里子、恵!」

 自転車の亜紀が、丘の上の学校から桜並木の坂道を猛スピ ードでくだっていく。恵とわたしが息を切らして追いかける。

 大きくカーブした道の向こうから亜紀の叫び声が聞こえた。
 「木下くーん」

 結局、亜紀は学校からいくらも離れていない神社の入口で 木下くんに追いついた。そこから、丘の中腹の神社へ登る石 段が雑木林の中を通っている。
 「逃がさないわよ」
 「わかったから。引っぱんなよ」

 わたしたちは長い石段の途中にある、ひとけのない石畳の 踊り場で話をすることにした。ここは、今は雑木林にすっぽ りおおわれた空間だけど、冬になれば葉が落ちてわたしたち の町と空を見渡せる展望台になる。

 走って息切れしてる恵とわたしは石段に腰かけて、つっ立 ったままの木下くんとその後ろで仁王立ちの亜紀を見上げた。 初夏の太陽が、石段をおおう雑木林を透きとおるようなグリ ーンに光らせてた。

 「えと…昨日は…どう…でしたか?」
 頭の中が整理できないまま、わたしは木下くんに質問を始 めた。
 「あ……、え……、ご、ごめん…」
 「…約束どおり…えと……できましたか?」
 「…そ、そ、そ、それが…」
 「…し……えと……し、なかったんですか」
 「…し…し、たんだけど…」
 木下くんが口ごもった。回数を聞かなきゃ…。
 「勉強しようと思って、机にすわっても、その…どうして も……こ、小山さんの言ったことを思い出して……」
 よかった。木下くん、わたしたちのアドバイスを守ろうと してくれたんだ。
 「その、こ…小山さんで……したくなって」
 「わたしで…」
 「…うん…」
 えと、わたしでしたくなった、わたしでしたくなった…… えーと、それって、つまり。
 「わたしでオナニー!?」
 「ご、ごめん…」
 「……」
 「マジ、ごめん…きっとイヤだよな」
 「えと…イヤっていうか…わたし、そういうの……初めて だから…」
 もしかして木下くん、わたしのことからかってるのかも。 わたし、美人じゃないし、スタイル良くないし、お寿司はサ ビ抜きじゃないと食べられないし……。

 わたしは軽く制服の胸元を押さえた。何となく、座ってる わたしの胸元が木下くんの位置から見えそうな気がする。わ たしと目が合って、木下くんが目を伏せた。からかってる顔 には見えなかった。

 何やってんだろ、わたしなんだかドキドキしてる。木下く んもわたしも黙ったまま。まずい。何か言わなきゃ……。

 パニックのわたしを助けるように、亜紀が話を戻してくれ た。
 「結局、何回したの?」
 「…4回…」
 「友里子で4回?」
 「…うん…」
 「我慢できなかったの?」
 「…我慢しようとしたんだけど…どうしても…」
 「ダメじゃん」
 「しかたないよね。習慣を変えるのはすぐには大変だし。 それに」
 恵がうなだれてる木下くんをなぐさめる。
 「きっと、友里子が良かったんだよね」
 「…うん……。…よかった…」
 「セクシー友里子、ヒュゥ、ヒュゥ!」
 亜紀が大口をあけてケラケラ笑う。
 「やめてよ」

 「こりゃ重症みたいだねえ」
 「どうすれば直るんだろう……オナニーのしすぎって…」
 わたしと亜紀は考え込んだ。恵の言うとおり、習慣を変え るのは大変そうだった。
 「友里子はしないの?」
 ふいに、恵がわたしに質問した。
 「…う、うん…しないけど…」
 「わたし、思うんだけど」
 恵が控えめに口を開いた。
 「友里子もしてみるといいと思う」
 ななな何言いだすの、恵。
 「だって、自分がしないのに、わからないでしょ、木下く んの気持ち」
 「そうかもしれないけど……」
 「友里子にも性欲はあるでしょ?」
 「それは、そのはずだけど……。で、でも、わたし、した ことないし……」
 「だいじょうぶ」
  恵は微笑んだ。
 「でも、でも、どうやって、す…するのか、わからないし ……」
 くすくす笑いながら恵が言った。
 「かんたんよ」

 4-4 恵

 「たいせつなことだと思うから、わたしも正直に話すけ ど」
 恵がこういう前置きをするときは、亜紀も口を閉じて美人 になる。
 「わたしもね、木下くんみたいなときがあったの」
 いつもそうするみたいに、恵は木下くんを見つめながら話 しはじめた。
 「きっかけはいろいろなの。休み時間にクラスの子が話し てたことだったり、読んでた本にちょっとそういう場面があ ったり」
 たぶん近眼の恵にはよく見えてないと思うけど、木下くん は吸い込まれるように恵を見つめてる。
 「そういう、何かほんの小さなことで頭の中が、したい気 持ちで一杯になっちゃってた。木下くんもそういうときある でしょ?」
 木下くんは可哀想なくらい真っ赤な顔をして、黙ってうな ずいた。
 「保健の先生に正直に相談したら、そこでしていいって言 われて、保健室のベッドでしたこともあったし」
 恵は小さなえくぼを作って、木下くんにうなずき返した。

 「授業中も家に帰る途中も、したい、したいってずっと思 ってて、頭の中だけじゃなくて、わたしのからだも……わか るよね……そんなふうになってて。男の子もいろいろあると 思うけど、女の子もたいへんなのよ」
 木下くんは何か言おうとしたみたいだった。でもつばを飲 みこむように喉が動いただけだった。
 「それで、家に着いたときにはもう我慢できなくて、制服 も着替えないでしたこともあったし」
 恵の口調は失恋した友だちをなぐさめてるみたいに優しか った。
 「木下くんだけじゃないのよ。わたしも、そういうときは 続けて何度もしちゃってた」

 木下くんは恵を見つめてる。
 風が吹くたびに、ざわめく雑木林にいくつもの光のかけら が降り注いで恵の髪を光らせてた。

 「でも、何て言うのかな……しすぎると感動が薄れるじゃ ない。わたしはいつも感動したいから、心の底からよかった って思いたいから、感動を無駄づかいしないで取っておくこ とにしたの。自分だけの時間をたいせつに楽しむことにした の」

 4-5 木下くんも一生懸命生きている

 その後も同じ場所で、わたしたちは木下くんにカウンセリ ングを続けている。わたしは今でも頬っぺたが赤くなるし上 手に喋れないこともあるけど、恵と亜紀が助けてくれる。

 木下くんも恥ずかしそうだけど、わたしたちを信頼してい ろいろ男の子の秘密を打ち明けてくれる。空想の中の出来事 とか、女の子の名前とか。回数やその瞬間の感じとか。

 その名前が恵や亜紀やわたしのときは、木下くんは特に恥 ずかしそうだけど、わたしたちに話を聞いて欲しい気持ちは 伝わってくる。悩みをわたしたちに話すことで、気持ちが楽 になるんだと思う。

 だから、木下くんがわたしたちでどんな空想をしても、わ たしたちが教科書でしか知らない、男の子だけの瞬間の勢い や量の話をしても、きちんと聞いてあげることにしている。

 回数は一日4回か5回のときが多い。目標達成は難しいけ ど、きっと前よりは減っていると思う。

 木下くんはすごく勉強に集中できるようになったみたいだ。 このまえ木下くんのお母さんにあったら、以前は家にいても だらだらしていた木下くんが、最近は帰宅するとすぐ勉強部 屋にこもって、食事とお風呂の時以外は部屋から出てこない と言っていた。

 そのせいか最近少しやせた気もする。勉強のしすぎや睡眠 不足で身体を壊さないといいけど。

 わたしたちが応援してるから。
 がんばって、木下くん!

 

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